チベット近代史について
歴史認識の違い――チベットからの歴史
中国政府は「チベットは歴史的にいって中国の不可分の一部である」という主張を展開し、チベット占領を正当化しています。しかし、チベットが現在のような形で中国による干渉を受けることは、7世紀に古代チベット王朝が歴史に登場して以来、1950年の中国人民解放軍の侵略までありませんでした。チベットは独自の通貨を用い、独自の言語と文化を持つ「独立した国家」でした。
1949年に設立した中華人民共和国は、翌年の1950年「人民解放軍の義務は台湾、海南島、チベットの解放である」と声明を発表、東チベット地方への侵略を開始します。すぐに首府チャムド(昌都)を征服。チベットは国連に提訴するも失敗に終わります。なす術なく、チベット人代表団は「チベット人民はチベットから帝国主義侵略勢力を駆逐し、中華人民共和国という祖国の大家族に復帰する」と唱える『チベット解放十七箇条協定』に調印してしまいます。そして、人民解放軍はチベットの首都ラサにまで進駐することになりました。
中国軍による圧制に耐えかねて、1956年より東チベットでチベット人による抵抗運動が始まります。各地に広がった抵抗運動は次第に激しくなり、中国軍によって村や寺院が破壊され、ゲリラ活動を扇動したという罪で僧侶たちが逮捕され始めました。抵抗運動はやがて首都ラサにまで及び、1959年3月10日、とうとう市民たちによる武装蜂起が勃発します。中国軍による砲火が降り注ぐ中、ダライラマ法王は3月17日の夜、ラサを脱出しインドへと向かいました。
インドに亡命したダライラマ法王は、ただちに『チベット解放十七箇条協定』を否認、翌年1960年にダラムサラでチベット亡命政府を樹立します。チベットでは、抵抗運動のため10万人近い犠牲者が出て、数万もの難民の周辺諸国への流出が始まります。[1]
亡命政府及びダライラマ法王の和平提案
国際社会から分断されてしまったヒマラヤの向こう側で、チベット人への弾圧は続きました。侵略以来1979年までの20年間で、チベット亡命政府は、6,259カ所にも及ぶ僧院・尼僧院が破壊され、チベットの人口の約20%にあたる120万人もの犠牲者が出たと公表しています。その無残な様子は1979年に、亡命チベット政府が調査のための第一次使節団派遣をチベットに送ることができるようになるまで、国際社会の目に触れることはなく、チベット人たちはただ黙って弾圧に耐えるしかありませんでした。
そんなチベットのために、ダライラマ法王はチベット問題解決を訴え続けました。法王の長年に渡る地道な国際社会への訴えが実を結び、1987年9月21日、ダライラマ法王は米下院人権問題小委員会で「5項目の和平プラン」と呼ばれる和平案を提案することができました。その案は:
- チベット全土を平和地帯に変える
- 一民族としてのチベット人の存在そのものを脅かす中国人の人口移住政策の廃止
- チベット国民の基本的人権並びに民主的自由の尊重
- チベットの自然破壊の回復と保護並びに、核兵器生産にチベットを利用することを止め、核廃棄物の処理場とすることの禁止
- チベットの将来の地位並びに、チベットと中国国民の関係についての真剣な話し合いの開始という五項目からなるもので、ダライラマ法王と中国政府の直接対話を呼びかけるものでした。
1987~1989年の抗議活動と戒厳令
ダライラマ法王の和平案に応えて、同年9月27日、ラサ三大寺の一つ、デプン寺の僧侶によるデモが起き、10月1日にはセラ寺の僧侶たちによるデモが続きます。10月1日には、警察署に連行されていった僧侶たちを救うために民衆が警察署に火をつけたことで、暴動に発展し、中国軍の発砲により3人の犠牲者が出ました。翌年の大祈祷法会が行われた3月5日には、やはりラサ三大寺の一つであるガンデン寺の僧侶による大規模なデモが発生し、3人の犠牲者が出ています。1989年3月5日にも大規模なデモが起き、戒厳令がひかれるほどの暴動にまで発展しました。亡命政府の発表によると、中国軍による発砲の犠牲者は9人とされています。
戒厳令の中でも、僧侶や尼僧たちによる小規模なデモが続き、逮捕者が続く中で、1989年12月にダライラマ法王はノーベル平和賞を受賞します。法王はこの賞を「多くの苦難を耐え続けてきた600万のチベット人たちにかわって受ける」と受賞スピーチで述べ、チベット問題の早期解決を訴えました。法王は平和賞受賞に先立つ6月、欧州議会において、チベットの「独立」ではなく「完全なる自治権」を求めるストラスブール提案を発表しています。以来、法王は一貫して「自治権」を主張し、中国にチベットの外交・防衛を任せたうえで、チベット文化の存続のためにも高度な自治を求める姿勢を変えていません。
チベットでの中国政府への単発的な抗議デモは決してなくなってしまうことはなく、規模は小さいものの、断続的にチベット各地で行われてきました。そのほとんどが僧侶・尼僧たちによるものです。チベットでのデモを敢行することは、逮捕、拷問、懲役を覚悟しての行為にほかなりません。チベット亡命政府に拠点を置くNGO「チベット人権民主化センター」(Tibetan Centre for Human Rights and Democracy ) は、1997年時点で懲役に服した良心の囚人の数を1,216名と発表しています。また、デモに参加して銃殺されたケース、拷問で獄中死したケースは、1987年から1999年までの間で、170人が確認されています。[2]
2008年3月にチベットで何が起きたか
2008年3月14日まで
1959年にダライラマ法王がインドに亡命した日から、もうやがて50年もの月日が経とうとしています。亡命し難民生活を送るチベット人たちは、北京オリンピックが開かれ、世界中の目が中国に注がれる2008年がチベット問題を訴える最後のチャンスになるのではないかと考え、去年から様々な抗議活動の準備を進めてきました。ラサでの民衆蜂起49周年にあたる2008年3月10日にダラムサラを出発し、チベット問題を訴えながらインドを横断し、故郷ラサを目指す「Return March to Tibet」(チベットへの帰還行進)もその一つです。亡命チベット人たちによる5つのNGO(「チベット青年会議所」「チベット女性の会」「グチュスム元良心の囚人の会」「民主主義の会」「SFT(Students for a Free Tibet)」が共同で企画し、100人の参加者が3月10日にラサに向けてダラムサラを出発しました[3]。
この行進の計画は、Radio Free Asia などのラジオ局を隠れて視聴することで、チベット本土に住むチベット人たちにも伝わっていました。NGOという言葉にはピンと来なかったものの、とにかく亡命政府からチベット人たちが自由の特使としてラサに帰ってくる、と考えました。信仰の自由・言論の自由は厳しく制限され、また、物価高騰、大量の漢民族の流入による失業率の増加、格差の拡大などの問題がチベットには山積みで、多くのチベット人にとって暮らし向きは少しもよくなっていませんでした。そんな状況の中で、帰還行進が引き金となり、ずっとくすぶっていた不平・不満が一気に爆発したのが、今回の一連の抗議活動だったといえます。
始まりは、チベット民族蜂起49周年にあたる3月10日にラサ三大寺の一つ、デプン寺での500人にもの僧侶による平和的デモでした。拘束されている僧侶たちの釈放を求めて、平和的にデモ行進を行ったのですが、すぐに武装警官による殴打や催涙弾で押さえつけられ、僧侶数十名が拘束されました。同日、ラサの中心地にあるジョカン寺で14人の僧侶による平和的デモが行われましたが、僧侶たちはすぐに警官に激しく殴打され、逮捕されてしまいました。翌日11日には、セラ寺で600人の僧侶による抗議デモが起き、13日にはガンデン寺の数百人の僧侶たちが続きます。いずれの寺も逮捕者が続出し、軍に包囲され、水道などのライフラインが止められました。14日には、ラモチェ寺で数百人の僧侶たちがデモを行いましたが、武装警官たちが突入し、僧侶たちはまたもや殴打されてしまいます。もうこれ以上正視していられないと、近くにいた市民たちが僧侶を助けようと警官たちの間に分け入ったことが、やがて数万のラサ市民による大規模な抗議活動へと発展するのに、それほど多くの時間を要しませんでした。漢民族が経営する商店が襲われたり、車が放火されたりという事件も発生し、大量の軍隊と軍用車両がラサ市に投入されると、催涙弾や銃が雨のように発砲され、ラサ市は騒然となったのです。これは、1989年3月5日に勃発した抗議活動以来の大規模な抗議活動で、夜間には外出禁止令が出されました。中国政府はこの抗議活動での死者を漢族13人と公表していますが、亡命政府側は少女5人を含むチベット人80人の遺体が確認されたと発表しています。
2008年3月14日――ラサ以外
この抗議活動はチベット自治区のラサだけで局地的に起きたのではなく、同じく3月10日に青海省の自治州のルツァン寺やディツァ寺でもデモが起きており、これらのデモ行動の波動は瞬く間にチベット全土に広がりました。14日には甘粛省のラブラン寺で約600人の僧侶によるデモが行われ、16日には四川省のキルティ寺でデモが行われました。キルティ寺のデモには、市民による千人規模のデモが続き、警官の発砲により8人が死亡したという情報があります。こうした抗議活動は3月25日までに45ヶ所の市町村・僧院で起きているのがこれまで確認されています。中国政府はこれら一連の抗議デモによるチベット人死者は3人のみ、と発表していますが、TCHRD(チベット人権民主化センター)によると、3月25日までにチベット人79名の死者が確認され、1,200人以上が逮捕され、行方不明者は100人にも及んでいます。チベットでの抗議活動はいまだ続いており、亡命政府は29日にもラサで数千人規模の抗議デモがあったと発表しています。
中国政府はこの一連の抗議活動を「ダライ集団によるきわめて少数の分裂主義分子による」ものとみなして、ダライラマ法王を「騒動の首謀者」として激しく非難しています。また、19日には、チベット自治区の張慶黎・共産党委員会書記が、ダライラマ法王を「袈裟を着た狼で、人面獣心の悪魔」と評し、中国は「流血をも厭わない覚悟」で戦い抜くと宣言しました。また、中国国営新華社は30日、ダライラマ法王は「北京オリンピックの妨害を通じて、チベット独立運動を画策している」との非難文を配信しています。
また、新華社は3月30日、四川省にあるキルティ寺で銃30丁、銃弾498発、4キロの爆発物などを押収したことを明らかにしていますが、真偽のほどを確認しようにも外国のメディアがチベットを独自に取材することは一切禁じられています。国際社会から情報公開への圧力を受け、辛うじて中国外務省と自治区政府は北京駐在の19社を選定し、3月26日から3日間、ラサでの取材を認めましたが、当局の担当が常に同行する、監視された取材でした。取材陣がジョカン寺を訪問した際には、封鎖されていた僧院内から若い僧侶30人が現れ、「チベットに自由はない」「当局はうそを言っている」と涙ながらに直訴するという騒ぎもありました。また、同様の直訴は、4月9日、甘粛省ラブラン・タシキル寺の僧侶たちによっても行われました。
現在も続く抵抗活動と武力制圧
チベットにおける人権侵害は悪化する一方です。4月9日には、ラサのラモチェ寺の僧侶70人が深夜に拘束され、現在でも消息がつかめていません。4月17日には、ラサのセラ寺の僧侶400人が拘束されたと伝えられています[4]。チベット亡命政府官民統一委員会(Tibetan Solidarity Committee)は、4月25日までに203名の犠牲者が出たと発表し[5]、また負傷者数1000人、拘留・逮捕者数5,715人としています。
チベット問題とは
環境:
チベットの領域は主として250万キロ平方メートルものチベット高原から成ります。広さは日本の6倍以上、平均標高は海抜4000mを超えます。インダス河、ガンジス河、サトレジ河、ブラマプトラ河、サルウィン河、メコン河、揚子江、黄河といった主要な川の源流があり、実に世界人口の47%がこれらの河川地域で暮らしています。チベットでの広領域における乱開発、森林伐採、地肌の露出・侵食により沈泥の流出が悪化し、これらの河川の氾濫が頻発に観測されています。
経済:
2007年の中国政府の統計によると、チベット自治区のGDP・国内総生産は342億元を超え、一人当たりのGDPが1万2,000元となり、チベット自治区経済は7年連続して12%以上の急成長を実現した、と発表されています。ですが、チベット自治区経済は今、大量に入植してきた漢族に握られ、教育水準の低いチベット族は不利な状況に置かれています。この二極化の傾向は、2006年に青蔵鉄道が開通した今、さらに漢族の入植が増えることが見込まれるため、いっそう深刻化すると思われます。チベット自治区の人口は約260万人(2001年の中国政府による人口調査)、そのうち約9割がチベット族ですが、そのうち、85%はいまだ貧しい農村部で暮らしています。一方、近年観光客であふれているラサ市では、チベット族15万、漢族20万と、漢族の移民が大きく上回っています。都市部での経済活動のほとんどは移住してきた中国人によって担われており、チベット人たちが中国の謳う「経済成長」の恩恵を享受することはほとんどないのです。また、この状況は格差社会につながっています。富める者と貧しい者、都市部と農村部の二極化を一段と促す結果になっており、チベット自治区内でのラサ市と他の農村地域での収入格差は5.8倍にも及び(2002年)、中国の他の省に比べても、類を見ないほど大きくなっています。[6]
教育:
中国政府は、チベットでの教育レベルの向上を主張していますが、実際にはチベット自治区での非識字率は45%にも及びます。中国全土での識字率が90.9%(2000年、世界銀行)にもあるにも関わらず、チベット自治区での識字率は著しく低いものになっています。さらに、チベット自治区では初等教育以上の教育を受けることができるものは、わずか11.5%に過ぎません。(全中国では75.5%:2006年、世界銀行)中等教育に進学できた11.5%のチベット人学生たちが、中国語での読み書きができ、経済成長の恩恵を辛うじて享受できるグループとなる可能性がありますが、残りの89.5%にも及ぶ大多数の若者たちには、そのようなチャンスはまったく与えられず、加熱する競争社会の底辺で取り残されています。
また、「漢民族化政策」のため、チベット語やチベット文化を学ぶ機会は著しく制限されており、子供たちがチベット人としてのアイデンティティを失うことを危惧した両親が、子供をインドに亡命させるケースはあとを絶ちません。
宗教・文化:
ダライラマ法王の写真を保持することは、チベットでは犯罪にあたります。中国当局によって僧院は厳しく監視され、一年あたりの出家僧の数にも制限が設けられています。1996年以降、僧院では「愛国再教育」が行われ、ダライラマ法王を批判できない者は思想が「好ましくない」とみなされ、一年間のうちに2,827名もの僧侶や尼僧たちが僧院から追放されています。[7]
人権:
チベットで言論の自由はまったく認められていません。『チベットに自由を』と公衆で叫ぶことは「国家反逆罪」にあたり、懲役刑を受けることになります。アムネスティ・インターナショナル日本の招きで、これまでチベット人良心の囚人3名が来日しています。2002年に来日した尼僧ガワン・ワンドゥンさんは15歳のときにデモに参加し、懲役3年の刑を受けました。ガワンさんと一緒にデモを敢行した5人のうち、2人の尼僧は獄中での拷問により命を落としています。
パンチェン・ラマ問題:
パンチェン・ラマはダライラマ法王に次ぐ活仏であり、第二の高僧としてチベットでは絶大な信仰の対象となっています。パンチェン・ラマ10世は、ダライラマ法王が亡命を余儀なくされた後も、そのままチベットに残り、9年間に及ぶ投獄や5年間の軟禁生活といった過酷な生活を過ごし、1989年に50歳で急死します。活仏としてチベット人から信仰されていたため、没後6年目の1995年に11世の転生霊童探しが始まりましたが、ダライラマ法王が認定したゲンドゥン・チューキ・ニマは、認定後わずか3日で家族共に姿を消してしまいます。中国政府は代わりに、別の少年を11世として認定し、反対する僧侶たちを投獄しています。中国政府は、ニマ少年を「保護する目的」で連行したことを認めているものの、これまでニマ少年の所在や安否を明らかにしていません。